2010年6月8日 星期二

居合筆記

これから記述する事は、私が習った夢想神伝流であるが、師匠である故・檀崎友彰先生の著書「居合道 - その理念と神髄」(体育とスポーツ出版社が)その中心となる。
 この書は簡明で初心者にも解りやすいので夢想神伝流を習う人は是非、手元に置いて読んで頂きたい。 ここではこの本を柱としながら講習会などで私が個人的に習ったことなど、この本に書いていないいわば影の部分を多様することにした。また、これに付け加えて、参考になると思った事は古書や他流などからも引用した。

初発刀(前)

「静かに刀に手を掛けると同時に・・・」
 本にはこの様に記述されているが、これは極力相手に悟られないようにと云う事である。やり方としては、拝むように両手を合わせるが如く、左手は鞘を右手は刀の柄を握る。鯉口を切る関係から、左手は右手より若干早い。左手で鯉口を切った瞬間に右手が柄を握っていると云ったくらいの時間差である。 橋本正武範士は「気配を感じたら自分を守るために先ず刀に手を掛け、鯉口を切るのは当然である。鯉口を切った形はなるべく相手に見せない様にする事だ」と云っていた。
※橋本範士は中山博道の影武者と云われた橋本続陽の甥であり、その関係で他の門人と異なり母屋で生活しながら東大に通学した。破格の扱いを受けた人物である。 剣法伝授居合口伝の一節に、膝の上に置いた手を直ちに柄に掛け握ると気と体が改まり、鞘が動いてしまい心の動きが解ってしまう。そこで鞘を握った左手の上に右手を乗せ、左手を撫でるようにして右手を柄まで滑らせるようにして移動させてから握れば、鞘はガタつかず静かにそのまま刀を抜く事が出来ると書き記してある。 抜くことを相手に悟られない為の気配りである。

※「剣法伝授居合口伝」とは幕末、講武所の筆頭頭取で田宮流の遣い手であった窪田清音の著書。窪田清音は剣法に関する著書が多く、また鎌田魚妙と共に刀剣鑑定家としても有名。 剣道でも「色を見せるな」と云う。「色」とは「気色」と云う事で、いざ打ち込む時には目の光、顔色などが変わってくる。  以上を以て「静かに刀に手を掛ける」の意味を理解して欲しい。「刀刃を上向きのまま静かに緩みなく抜き出し、剣先9センチの所より刃を横にして急激に右足を踏み出すと同時に、敵の顔面に抜き付ける」

 檀崎先生は「序・破・急で抜け」と云っておられた。始めは序(そぞろに)、次に破(紙を破る如く)、そして急(さらに早く)という意味であるが、先生の著書ではこの「序・破・急」の説明が無い。 それは人間が動き出す時には、歩くにしても走るにしても最初の数歩は緩やかで徐々にスピードが乗るものであるから、敢えて省略したものと推察する。

 「静かに緩みなく」とは「殊更ゆっくり」とか、「鉄砲玉の様にいきなり急に」と云う事ではなく、刀の抜ける勢いに応じてスラスラと徐々に早く抜けばよいのである。

 剣法伝授居合口伝に「始めは臍下に納める気に随い静かに、中は早く、終わりは急に抜くなり。これ序・破・急に同じ」と気に従って次第に早く抜く事が記述されている。
 本によっては「大きく三度、息を吸ったところから刀に両手を掛け抜き出す」と書いてあるものもあるが、私はこの事を「吸った息を臍下(下腹)に呑み下ろす」と解している。そうすることによって腰に力が入り、姿勢が良くなり、「抜く」と云う気が入るのである。 後は不動明王の姿を意識しながら軽く息を吐きつつ、一つの技を終える。調子の悪い時は、斬り下ろした後「残心」を示しながら再度一気に息を吸い、終わりまで吐き続ける。 斬り下ろした後は納刀し、技が完全に終わっても残心に次ぐ残心である。 初発刀は形だけを見れば簡単な技であるが、実は奥が深い。ページをめくればめくるほど色々な事が出てくる。

  中山博道は晩年に「初発刀だけは満足に抜いたことが無い」と述懐したそうだ。
 私の友人である高木登志雄教士は「夢想神伝流の本当の奥は初伝ではないか」と云っていた。

 檀崎先生が私に「居合は初伝だけでよい。全てが入っている」と云った事があるが、この様な意味かもしれない。踏み込みについて

 私が居合を習い始めた頃、研修館には教士七段になった花沢一男(現東京)、高木登志雄の二人が居た。私にとっては道場の先輩であるが、すぐに友人として交際するようになった。 奇しくも我々三人は、後に千葉県居合道部設立のために故・志道吉次範士(後の千葉県居合道部初代部長)の下で活動し、居合道部設立後はそれぞれ役職に就き、居合道部運営に携わる身となった。
 話が逸れたが、当時三人とも抜き付けの際に右足を高く上げて床板を踏み鳴らしていた。先生方の話では、中山博道の有心館で稽古していた頃は、先生方も床板を踏み抜く事を誇りにしていたそうだ。

 昭和51年だったと思うが、千葉県居合道部の講習会で、高木教士が講師を務めた際、「右足は踏み込んで音を立てず、摺り足で出すように。居合は衣擦れの音だけでやるものだ」と云った。 急な事で私も何が何だか解らず、その後の審査、審判の事もあり皆に「この様な考え方もある」と話すに留めて、その日を終えた。 然し高木教士はその後、各講習会、大会などで摺り足をやり、それが受けたらしく何時の間にか全国的に広まった。

 昭和52年の京都大会の時、宿泊先で同宿した花沢教師、古市正昭教師(千葉)、高木教士と私の4人でたまたまこの話になった(因みにこの4人はどこの大会、講習会でも都合の付く限り一緒っだった)。 私は研修館での稽古や剣道での飛び込んで打つ時の事、実際に藁束を試し斬りした際の斬り味などを説明し、足音を立てるべきである事を主張した。 高木教士は「居合は色や形を見せたり、音を立てたりするべきではない。なるべく相手に悟られない様、密やかにするものだ」と主張した。それを聞いて高木教士の考えも一理あると思った。 古市教士は「斬れればどちらでも良いではないか」と中間意見。花沢教士も「刀は人を斬るもので物を斬るものではない。どちらでも良いだろう」とこれまた中間意見であった。

 その年の9月、千葉県勝浦市で行われた中央講習会で、或る県の教士八段の方が「摺り足でやるべきか、踏み込んで音を立てるべきか」と質問した。その時は「どちらでも良い」との回答であったが、この方は一本気な性格らしく、翌年、翌々年とその後二回の中央講習会で同じ質問を繰り返した。 結局「気合いの問題であり、どちらでも良いが出足に迫力と鋭さがなくてはならない」と云う事で一件落着、現在全剣連では全ての技で足音を立てない様にしているようだ。 高木教士には先見の明があったと云えるだろう。

 昭和年間といっても千葉県居合道部では昭和50~64年までの間であるが、段の高低を問わずお互いに意見を出し、議論し、実際に演武して批評しあう等、活動が活発であった。

左刀(左)・右刀(右)・当刀(後)

 どの技も動作は初発刀に似ているので一括して記述する。左刀 自身の左に居る相手に対し、左に廻りながら抜き付ける。踏み込む足は左足である。右刀 左刀とは逆に、右にいる相手に対して右に廻りながら抜き付ける。右足で踏み込む。当刀 後ろに居る相手に対して抜き付ける。左右どちらから廻っても良い。相手との間合いが遠くなるが、これは相手に空を斬らせた後に相手を斬る意で、剣道で云う「抜き技」と考えてよいと思う。 いずれも回転する技であるから初発刀と異なり体のバランスを崩しやすい。特に当刀は左刀、右刀と比べ回転する量が多いので注意が必要である。 膝立ちになった後、左刀であれば右膝及び左爪先を軸として、左膝を相手に向けながら廻る。これは腰を含めての関連動作であるから、ばらばらの動きになってはならない。 回転する際に左足を移動させてしまう者をよく見掛けるが、これでは相手に正対するのが難しい。腰の回転で回らず、足で廻ろうとする意識が働いているのかもしれない。従って腰が曲がり、腰抜け状態になる。甚だしいのが左足が相手の右膝の方に着地し、相手に生体せずに斜めになってしまう。

 剣先が回転の途中で鞘離れして相手に向いていない者もよく見る。前記の足、腰の回転が不十分である事も関係してくるようだ。

 これらの欠点は相手をよく見ないから起るものである。五感のうち視覚が作用していないことになる。また、鞘離れのタイミングに関しては触感(手の内)が作用していないのだろう。

 それよりも気配り(気の動き)に問題があるのかもしれない。 右刀、当刀に関しても回転方向と回転量が異なるだけで同じ事が云える。要は相手に対する鞘離れのタイミングと角度が問題なのである。

陰陽進退(八重垣)

 二人の相手に対する技である。 抜き付けは初発刀と同じであるが、剣先が相手に当たると同時に床についている左膝を少し上げると、次に左足を踏み出すのが速くなる。左膝を上げるといっても何センチと数字で示すのは難しい。強いて云うなら10センチ前後であろうか。これは神経痛など膝に何らかの故障がある人や高齢者には無理かもしれないので、一つの考え方として受け取ってもらいたい。

 二度目に抜くときは、刀はその位置のまま、左足を後ろに引きながら抜く。左足に連れて腰も引くことになるので「腰で抜く」と云われている。刀は前に出さない様にするが、刀の長さによっては多少前に出るのは止むを得ないであろう。 稽古の方法として、刀を帯びて壁に立膝で正対し、左足を引きながら刀を抜くというやり方がある。高木、花沢、古市教士と私の4人が機会ある毎に一緒にこの方法で稽古したが、案外効果のあるものである。 この稽古をしたおかげで、中伝に入ってからがとても楽だったのでお勧めしたい。 後は初発刀と同じであるから、初発刀がいかに大切か解ると思う。

流刀(受流し)

 流刀は受流しとも云われ、相手の斬りかかる刀を受け流すところからこの名前がついたようだ。 私が習い始めた頃は刀の柄を横から握り、刀は水平(やや左下がり)に、刃を後ろ向きにして棟で受けた。 左足は一歩、前にトンと踏み出して受け止め、立ち上がりながら右足を一歩トンと右前に踏み出し、相手の刀を受け流しながら刀を首筋に水平に担ぐように構える。 そして左足を相手に向けながら左踵に右踵をトンとつけて胴を斬る動作であった。 間拍子は「トーン・トーン・トーン」と云った同じくらいの間隔であった。

 昭和54年頃、踏み出す左足が半歩に変わり、受ける刀の刃は斜め上に向けるようになった。
 左足を一歩前に踏み出すと相手との間合いが遠くなり、相手を斬る刀が届かなくなる恐れがあるからである。 また、刃を斜め上に向けるのは、相手の刀を棟や平地で受けては刀が折れたり「刃切れ」になる恐れがあるからである。

 刀の一番強く丈夫な所は刃であり、一番弱いところは棟である。そこで刃にかかる平地で受けることになった。刃で受ければ相手の刃に食い込んで動きが取れなくなるので、刃で直接は受けないことにしたものらしい。

 間拍子については昭和52年、京都大会での審査会で故・高木教士が流刀を抜いた際、「ト・トン・トーン」と云った間拍子で演武し、皆を驚かせた。この間拍子は以後現在に連なっており、かなり普及しているが、元を正せば高木教士である。 

高木教士は「あの時、流刀で7段に合格したのだろうな」と、その夜4人で一杯やりながら話をした。 相手の刀を受けた時、右手の小指は柄に掛けていなければならない。そうでないと受けた瞬間、自分の刀が飛ばされてしまう。握る必要はなく、掛けるだけで良い。小指を掛けていれば、受けた瞬間に反射的に小指は柄を握るはずだ。 

斬るにしても受けるにしても、左右の小指の動きは重要なのである。中島五郎蔵範士が「死んでも小指は離すな」と云っておられた意味がよく解る。 初伝の中で最も難しいのが流刀であると私は思う。実戦で考えるなら最も動きが速く、忙しい技だ。

順刀(介錯)

 順刀は「介錯」とも云われ、武士の切腹の際、その首を斬る技である。「切腹は武士の儀式である」と云われ、首は一気に切り落とさない。首が前に飛び、反動で体が後ろに仰け反るのを避ける為である。一気に切り落とすのは「斬首」「打首」と云われ罪人に行うことである。従って罪人に「切腹」はない。 夢想神伝流では「喉の皮一枚を残して斬れ」と云われているが、刀の斬れ味、斬り手の腕の冴え、心の持ちようもあってなかなかこのようにはいかないと思う。 切腹は儀式であるから、死に行く者に対して「礼」を失してはならないので、静かに重々しく行うべきである。 切腹するものは覚悟していても矢張り心中は穏やかではないのだから、いつハプニングが起きるか分からない。斬り手はその事も考えて執行すべきなのである。

 無雙直伝英信流居合兵法 地の巻(直伝英信流 政岡壹実範士 著)に介錯について記載されているが、先生も解釈について他の流儀の事を随分と研究されたらしい。「幕末以前も介錯について居合の中で重要視していたことが伺われる」と記されている。 介錯は形でみる限り単純な技であるが、斬り手の心の持ちよう、気配り、目配り等、大変なものがあるようである。

逆刀(附込)

①正坐から膝立ちしながら、右足は左膝の位置まで進める。同時に刀は約20センチ抜く。

 大村範士は「隠し抜きであるから柄は右膝下に抜く」と指導していたが、それを極端に受け止めた人は腰を曲げ、柄頭を床に触れんばかりにして抜いていたようだ。②立ち上がりながら左脚を大きく後ろに引き、連れて柄を頭上に受流しに抜き上げながら右脚も引き、左脚に揃える。

 受流しに抜くと左肩と刀の間は約20センチになる。このとき、右小指を柄から離す人が居るが、これは良くない。理由は流刀の受けた時と同じである。柄から小指は離すべきではない。

 私は格好よく抜こうと思って、柄は頭上に、剣先は鯉口に入れたまま、左脚に右脚を揃えていた。これが大失敗だった。私が指導していた者に木刀で斬り下ろしをさせたら、私の木刀を滑落し、鯉口を握っている左人差指をしたたかに打たれた。 矢張り退がりながら少しでも「早く抜く」べきであるとつくづく思った。何事も技術は実験である。③右脚を一歩踏み出して相手の喉まで斬り下ろし、振りかぶりながら左脚を一歩踏み出し、更に右脚を一歩踏み出して斬り下ろす。

 初心者のうちは兎も角、馴れてきたら前に出るときは剣先で相手を攻めて出るべきであり、前に出る脚の歩幅も考えるべきである。④左脚を右脚に揃え、右脚を引きながら上段に振りかぶり、残心をとる。⑤右膝を床につき、右手で柄を逆手に持ちかえながら、肩の高さに柄を持ってくる。左手は開いて棟に掌を添える。剣先は床上約20センチ、刃は相手の首(頸動脈)に当てる。⑥刀を引き上げながら頸動脈を斬る。左手は動かさず、斬り終わった後、剣先は左指先にある。

 止めの一刀の使い方であるが、この説明は私が入門した時のものである。しかし昭和の終り頃、檀崎先生は逆手に持った刀を一旦持ち上げ、喉を突き刺し、また刀を持ち上げる動作をした。それが現在に至っている。 

止めのやり方については、他流でも多々あるようだが、私は入門当時の頸動脈を斬るほうが、喉仏を突くよりも当たり外れがなく早いと思う。死にかかっている者を少しでも早く楽にさせるのが武士の勤めとなるのであれば、

頸動脈を斬るほうが実戦的に良いと思う。⑦刃を前方に向けながら柄を右に倒して刀を水平にし、腹に近づけて納刀する。

勢中刀(月影)

 この技を「勢中刀」と名付けた意味が私には解からない。他に「制肘刀」の文字を当てる人もいるが、腕(肘)を斬る技であれば、この文字の方が解かり易い。

 別名を「月影」と称するのは、それだけ早業なのだと橋本範士より伺った。月明かりの夜、窓の障子を開けると、サッと間髪を入れることなく月光が室内に差し込む。その状況から名付けられたと云うのだ。 また、別の解釈としては、刀を抜き放った様が三日月に似ているところから「月影」となった、という説もある。 

正面の敵に対し「右刀」と同様、左向きに正座する。 敵が上段から斬り下ろしてくるところを、敵に向き直りながら右脚を一歩踏み出して、その腕を下から斬り上げる。 腕を切り落とした為、敵の刀が我頭上に落ちてくるので、我刀を頭上に水平に翳して受ける。それと同時に左足を踏み出した右脚に揃える(継脚)。そして、更に右脚を一歩踏み出し、敵を頭上から斬り下ろす。 その後は「右刀」に同じく、血振り・納刀を行う。 この技は「右刀」の変化技だと考えられる。教えるところは、運剣は下からの斜であり、脚の使い方が「継脚」であるという点。 また、この技についても考え方による形の違いがある為、それについては別項に譲りたいと思う。

虎乱刀(追風)
 
初伝唯一の立技である。 

「追風」と云う別名は、剣先の止まるところが無く、相手を攻め続けることから名付けられたのだと推察できる。 

想定するのは、正面の敵一人である。 

両脚を揃えて立ち、両手を刀に掛けると同時に鯉口を切る。 

左脚を一足長、前に踏み出す。この時、既に剣先は鯉口にある。 

横一文字に相手に抜きつけながら、右脚を半歩踏み出す。 

左脚を一歩踏み出しつつ、刀を頭上に振りかぶり、更に右脚を大きく一歩踏み出して敵を斬り下ろす。 その後に血振りを行い脚を踏み変えるのであるが、右脚は一足長から一歩の間隔程度に軽く引いて、立ったまま納刀する。

要点1.

踏み出す脚は、はじめは幅を狭く、順次大幅になりつつ相手を追い込む。
2.抜き打ちから更に追い込む際は、剣先を相手の胸元から離さない心持ちが必要である。
3.脚は「左―右―左―右」と並足で進むが、この部分は前出の「勢中刀」の継脚とは異なる。
4.追い込む際は棒立ちにはならず、腰を低く保ったまま、いわゆる居合腰で進むように心掛けたい。
5.呼吸は、抜き始めから納刀まで一息であるのが望ましい。

逆手陰陽進退(脛囲)

 「逆手」と云っても、刀を「流刀」や「逆刀」のように逆に刀を持つと云うことではない。 一人目の敵に抜きつけて斬り下ろし、納刀するまでは前出の「陰陽進退(八重垣)」と同様に行う。 二人目の敵に対し、再度鯉口を切るに当たって、右手は柄の平の部分を握る。抜いて、そのまま刀を見れば、刃が平より右斜め上になるように抜き、敵が我右脛を斬ってくるのを、上から棟で叩き落す。この時の形が脛を囲っているようになる。

 私が教わったのは以上であるが、横から斬ってくる刀を上から叩き落すのは、なかなかタイミングが合わず難しいと思っていた。 最近は、斬ってくる相手の刀を右横に払い除けるように変わったらしいが、私も、この方に合理性を感ずる。

 それ以降の動作も「陰陽進退」と同じである。抜刀(抜打)

 正座に座ったまま鯉口を切ると同時に、右横に抜きながら両膝を立てる。 振りかぶりながら両膝をつける(正座時の両膝の間隔は約10cmである)。 両膝を左右に同時に開きながら斬り下ろす。 横に開く血振りをして、納刀する。

 「無礼打ち」とも称し、本来早い技であるが、メリハリを失ってはならない。また、単純な技であるので、気迫の充実しているところがポイントとなろう。 一息で終わらせたい技である。補足

初発刀

 私が居合道を習い始めたのは昭和36年であるが、(当時と比べて)特に変化したと思うのは、横に抜きつけた後の振りかぶりである。以後、順に記述する。

(1) 昭和36年頃は、写真1の如く鍔を頭上中央に高く持ち上げ、右腕と刀で三角形を作った中に体を進める(と云っても、実際は左膝を踏み出した右踵まで進めるだけである)。 形だけの説明はこれだけであるが、「何故?」と問われれば、私の場合、次のように説明する。

<写真1> ①完全に「受け流し」の体勢である。

 ②写真で見れば刀は止まっているが、実際は緩やかに動いている為、「抜きつけ」から関連して考えれば剣先は大きく旋回しているので、剣先に及ぶ遠心力は非常に大きく働く。  つまり、上記のように2つの理がある訳だ。 かつて、千葉県立身流宗家の故・加藤高範士に「立身流の斬り方も、大きく遠心力を利用しているように思う。私が最初に習った初伝でも、そのように考えられる」と話したところ、先生も「全くその通りで、流派は異なっても考え方は変わらない。中山先生(無想神伝流)の所に出入りさせてもらっていたが、先生もそのように考えておられたようだ」と、これをきっかけに古い時代の話をしてくれた。 以後、加藤範士とは会うごとに親しく話をさせてもらい、よい勉強になった。加藤範士は、問えば懇切丁寧に答えてくれた高潔の人である。(2) 昭和43年に、いわゆる制定居合が全剣連で制定された。その解説書では一本目の振り冠りについて「左の耳を突くが如く」とあり、また「後ろの敵を突くという意もある」との事であった。 その故か、振り冠りは右肘節付近を顎の下近くに持っていくようになった。(3) 昭和53年、私は故・高木登志雄教士と共に千葉県を代表して、全剣連主催の居合道中史講習会に参加した際、朝稽古で振り冠りについて日本剣道形八本目(小太刀)にヒントを得て稽古していた。 それを、たまたま檀崎・中島両範士見ていたが、その夜、宴席で中島範士が私に「居合といえども芸である。さらに工夫・研究しなさい」と言ってくれた。 その後、振り冠りは現在のそれに変わっていった。夢想神伝流の現在の振り冠りは「左肩口から」となっているが、この事については故・藤田文三範士が千葉県の講習会で説明していた。 しかしながら私個人は、振り冠りは最初に教わったものが最も合理的であるように思う。形の全体について)

1.檀崎範士の場合

 「刀は差している方向に抜け」とは檀崎範士が常に云っていたことで、先生自身、徹底してそのように抜いていた。上体を左に捻らず、相手に正対したままの姿勢である。(写真2) 左手は鞘を後ろに引く関係から、多少、左肩が後ろに引ける時もあった。
<写真2>

2.大村唯次範士の場合

 一方、大村範士は腰を左に回して抜くよう指導した(写真3)。つまり一重身(ひとえみ)に抜くのである。 大村範士によると、師である中山博道から「後ろに注意せよ」と教えられ、後ろから見た場合、我身をできるだけ狭くするよう心掛けたそうである。

<写真3>理を考えてみる

(1)檀崎範士の場合

 相手の左方向に抜くのであるから、相手の正中線(鼻先から水月、臍に至る体の中心)に柄頭を向けて抜くより間合いが遠くなる。また、長い刀であれば更に右方向に抜かねばならないため、抜き難いのだ。 しかし、抜き出す際、相手に柄頭を押さえられる(※)危険性は少なく、次の技に入る場合に安定した姿勢となり、動きやすい。 このような長所・短所があると考えられる。

 ※檀崎先生は相手との間合いを4尺5寸としていた。 

(2)大村範士の場合

 一重身に抜くので間合いが延びる。長さ2尺3寸の刀を使用した場合、中心線(正中線)より右肩が前に出る分、剣先が相手に近くなる。体の大小にもよるが、およそ10~20cm近くなると思う。 左手を引く動作も自然に大きくなるので、その反動も加わって、剣先に遠心力がかかる。また、剣先 ― 手の内 ― 肘 ― 肩と、ほぼ一直線に近い形で相手に抜きつけることができるのである。 但し、檀崎先生の場合と異なり、姿勢が如何にも不安定であり、次の動作に移るのが難しい。更に、後ろの脚(膝から踵)が内に入りやすくなる為、そうならないよう工夫が必要である。 矢張り、こちらにもそれなりの長所・短所があるのだ。 余談ながら、檀崎範士は私に「抜くときに上体を45~60度、左に回せ」と指導してくれた。これはまるで、檀崎範士と大村範士の中間をやるよう云われたようなものだ。同門の他の弟子には、そのように指導した様子はないので、私にだけ、そのように指導したのかもしれない。 このような指導法は昔からあったようで、大村範士も弟子である元・千葉県居合道部副部長 高木登志雄教士と、津村恵治教士(現東京)には、同じ技でも多少異なる教え方をしたようであるし、一段上って中山博道門下で高名な先生方は数多いが、それぞれに多少違うようである。 

ある程度腕が上がれば、その個性に合わせて指導したのではないかと推察する。

当刀

 右回りについては特筆すべきものはない。問題は左回りの膝の動かし方である。

1.私が教わったのは、そのまま立ち膝になり、両踵を真後ろになるように左右に開いて、左膝を正面に回しながら体全体を正面に向けることであった。

2.その後、これでは正面に向いたとき敵に正対しないから、右膝を左膝の前にかぶせるように接近させたあと回る。これであれば、正面に向いたときに、ほぼ敵に正対できる。

3.現在は元に戻ったようだ。順刀(介錯)

 首をどれくらい深く斬るか?である。 最初に習ったのは、喉の皮一枚を残すことであった。切り放すと「斬首」となり、首が飛んでしまうからである。

 ・刀を首に乗せた後、引き斬りにする。
 ・首の骨まで斬った後、引き斬りにする。
 ・喉まで斬ったあと、引き斬りにする。

等々意見は多いが、要は首を斬り飛ばさない事にあるようだ。首を斬り飛ばせば、罪人に対する斬首・打首となってしまうからである。 介錯は、武士たる者の儀式の一つであるから、「礼」を失ってはならないのである。逆刀(附込み)

1.抜刀について

  (1)檀崎範士の解釈

 刀は腰に差したままの形で、後ろに一歩退きながら頭上に抜き上げる。 従って、一瞬の技は早い。 

(2)大村範士の解釈

 「色を見せない」と云う事で「隠し抜き」で行う。 柄頭を右膝下に向けて約10cm抜いた後、一歩退りながら頭上に抜き上げる。このやり方は、人によっては腰を曲げたり、また柄頭を下げる事によって反動で立ち上げる……と云った欠点が出やすい。 極端に受け止めている感もあるが、腰を曲げ、柄頭を床上スレスレまで下げる人を見かけるにつけ、動作がオーバーになってしまっているように思う。

2.止めについて

 私が教わった頃は刀を逆手に持ち、剣先を床上の敵の首近くに当て、首の動脈を切るか、首を掻き切るかであった。 平成に入った頃と記憶しているが、檀崎範士は床上まで下ろした剣先を、一旦、左膝の高さまで上げ、敵の喉仏に突き下ろす動作をするようになった。それが現在、多くの人が行っている動作である。 しかし、これを実際に行うとすると中々に難しい事なのだ。敵が全く動かない状態であれば良いが、まだピクピクしているような場合であると、うまく行かないように思われる。尤も、流儀によっては敵の喉元2~3cmの所に剣先を近づけ、折をみて突く動作も見られるが、これであれば確実であろう。 しかしながら、私は一番最初に教わった「止め」が一番合理的であると思う。故・中島五郎蔵、瀬上正治両藩士も「最初の方が良い」と云っていた。 曰く、「相手の苦しみを少しでも早く取り除くのが先決である」との事であった。

勢中刀

 右刀と同じように、敵に対し左向きに座り、斬ってくる敵に対し左に体捌きし、右転して敵の腕を逆袈裟に下から斬り上げる。 落ちてくる敵の刀を我刀で頭上に受けながら左脚を継ぎ脚させて右脚に揃え、右脚を更に一歩踏み込んで真向正面に斬り下ろす。 血振り・納刀については初発刀に同じである。

 (1)大村唯次範士の解釈

 大村範士の場合は敵に正対する考え方で、右転する際、両足踵と両膝を床から上げ、足の肢骨を使って、敵に正面に対する。要は中腰の状態で敵に正対するのである。 その場から、右脚を一歩踏み出し、振り冠っている敵の腕を斬る。その後の技については基本と同様である。
特徴) ・体は移動せず、その場で敵に向きを変えるだけであるから体捌きはない。右転だけである。

  ・両脚も、その場で向きを変えるだけなので、左脚は後ろに回らない。その分、敵との間合は約60cm(刀一振り分)近くなる。敵と一瞬の  勝負になるから、間合が近くなるのは大きな意味を持つだろう。 これは大村範士から故・高木登志雄教士(千葉)、そして現千葉県船橋支部長・加藤賢二六段に継がれている筈である。 

(2)中島五郎蔵範士の解釈

 体捌きの後、斬り掛かってくる敵の腕を斜め上から斬り下ろす。すでに体捌きをしているので、敵の落ちてくる刀を受けることなく、そのまま振り冠りながら継足となり、真向から敵を斬る。以下、初発刀に同じである。

 中島範士は剣道も範士九段であるから、この勢中刀を日本剣道型2本目と同じ様に考えられていたのではないだろうかと、甚だ僭越ながら推察する。 剣道型2本目は、相手が小手を打ってくるのを左に体捌きして、これを抜き、相手の小手を打つ動作。いわゆる「小手抜き小手」である。酒の席ではっきりしてはいないが、中島範士がそれらしい事を云っておられたのを記憶している。まとめ 解釈によって所々に異なるが

・体を右転する。・継ぎ足をする。・相手の腕を斬る。・最後に真向から斬る。
ことは一致している。最近、試合審査等で、腕を斬るまでは中嶋範士の説と同様であるものの、「腕を斬った形のまま、継ぎ足をせずに左脚を一歩踏み出し、更に右脚を踏み出して敵を斬る」という動作を行っている人を拝見する。 他流であれば何も云うことはないが、夢想神伝流であるならば、左脚を踏み込んだ分間合が詰まり、敵を真向から斬り下ろす時には敵と横並びになる形となってしまい、斬ることが不可能になってしまう。だからこそ、前述の解釈では皆、継ぎ足を用いているものと思われる。 無想神伝流においては「右―左継―右」と二歩分の前進であり、「右―左―右」と三歩移動することはないのである。左刀、右刀、陰陽進退(八重垣、逆手)、流刀、虎乱刀、抜刀
 
上記の型については、現状の私としては特に記述するものはないので省略し、基礎・初伝については一旦、筆を置き、次回からは余談に入りたいと思う。

※ 尚、今迄の記述に関する御批判・御要望・御意見等ありましたら、御一報賜りたく存じます。  また、文章が冗長になることを避けるため、想い出すままダイジェスト的に書いておりますので、尻切れトンボになっている部分があるかと思われます。そういった点に関しましては、何れ機会を見てまとめていきたいと考えている次第です。  御不審・御質問については、電子メールや御手紙を頂きましたら、可能な限りお答えしていくつもりでおります。

居合道之發展沿革

所謂「居合」就是兩方互對之稱呼。古代依流派而有「居相」、「拔合」、「坐合」「拔劍」、「鞘內」、「利方」、「拔刀術」等等稱呼。但都是瞬間拔刀不給予敵人有空隙可乘,而制敵致勝的刀技。

居合之起源,在日本古代奈良朝代(西元710~793年)或平安時代初期(西元794~1191)萌芽。一般是在戰國時代研究出來的刀術,當初於戰場格鬥時,槍(矛)和薙刀等,被折斷、或被擊落時瞬間,拔出腰佩之大刀、或短刀以應對敵人而研究出來的一種刀技。後來與劍道合併研究發達後,被各派武術吸納採用至今,現今認為居合之始祖為林崎甚助重信。
林崎甚助重信在日本出羽之國,出生於林崎村(現在的山形縣村山市楯岡町)的甚助,為報父仇,研究刀術,後來成為流派而後發展傳承。甚助所研究、編考之刀法,被一般武術家稱謂「林崎流」「神夢想流」「重信流」,從其門派內出現了另立­「田宮流」的田宮平兵衛重正,立「伯耆流」的片山伯耆守久安等輩。追考林崎流居合的流源,

初代 林崎甚助重信  六代 万野団右衛門信定
二代 田宮平兵衛重正 七代 長谷川主稅助英信
三代 長野無樂齋槿露 八代 荒井勢哲清信
四代 百々軍兵衛光重 九代 林六太夫守政
五代 蟻川正左衛門続 十代 林安太夫政詡

綿綿續傳,在其間,受傳於林崎正統七代門人,長谷川英信是江戶中期,享保年間(西元1716~1735)之人物,被視為自始祖甚助以來最傑出的高手。為適合時代,改變居合古傳的配刀法,將刀刃改為向上佩帶的姿勢以利拔刀。並創制「長谷川英信流」,由江戶回到「四國」土佐推廣,因此英信流至今在「四國」高知繼續流傳。

另正統第九代門人,林六太夫是劍術師,神陰流高手。大森六郎左衛門將劍形五式和小笠原流禮法正跪坐融合在拔刀術,從正跪坐姿勢研發出拔擊居合,加入英信流就是現在夢想神傳流初傳「大森流」。

林崎流之正統第十一代門人,大黑元右衛門清勝之後,從第十二代起分傳為谷村及下村二派傳下。
(谷村派) (下村派)
十二代 林益之丞政誠 十二代 松吉貞助久成
十三代 依田万藏敬勝 十三代 山川久藏幸雄
十四代 林弥太夫政敬 十四代 下村茂市定政
十五代 谷村龜之丞自雄 十五代 細川義昌義馬
十六代 五藤孫兵衛正亮 十六代 中山博道
十七代 大江正路子敬
十八代 森本免久身

谷村派第十七代大江正路之後,歷穗岐山波雄、福井春政至河野百練等人繼續流傳下來。
在古流劍術中,因使用的均為刀法,所以居合和劍道兩者之間並未有具體的分野界線,所以武士大都劍道高手之名而得以留傳千古。但卻因文明開化之廢刀令影響,使居合和劍道同時而衰退,至西南戰爭雖然把劍道風氣再度鼓吹返息,唯原來有七十餘派流的居合竟然僅僅殘存二十餘派流,而且衰微到僅能在大日本武德會所舉辦大會中,混雜於各種武術演武的陣容的不振境遇。
在此居合頹微之時,再度重振發揚光大者,是現代居合道始祖中山博道。博道生在明治中期(西元1868~1912)潛心於居合,受教薰陶於土佐「細川義昌和森本兔久身」兩師,修得內外無雙之英信流,進一步加添自身之研究,從昭和八年起,成立「夢想神傳流」推廣於世。

此後,居合再度隆盛,但戰前唯有舊武德頒發的稱號,而居合是沒有段位之稱的。至二次大戰結束,因為受佔領軍的沒收日本和廢止劍道等等打擊,武道被認為是沒落了。至昭和二十七年由於劍道之復活,居合亦再復甦。全日本劍道連盟成立後,伴隨劍道興盛,開始修練居合者亦隨之增加。至居合道加盟全日本劍道連盟之後,與劍道同樣地居合也設立鍊士、教士、範士之稱號和初段至最高十段的段位。劍道雖然很昌隆普及,但劍道所使用的是竹劍和木劍,使用真刀場面只限於劍道形或古流派之形的演武而已。因此精神上把竹劍和木劍像真刀一樣使用,實在是難中之難。劍道這項目,被稱以點擊的運動化劍道以來,為藉著握住劍道原本的真實感而開始學習居合的劍道家亦增多了。

然而全日本劍道連盟鑑認學居合得體會刀之操法,修得掌內力道而活用在劍道招術上,設計編制使劍道家亦可容易學習的居合。因此在當時居合道大專家的十二位委員,武藤秀三、吉澤一喜、政岡壹實、山本晴介、山蔦重吉、寺井知高、未次留藏、紙本榮一、壇崎友彰等各範士和大村唯次、額田長、澤山收藏之各八段(當時)者,被指命委託研究。在日本武道館舉行第一次委員會時,由「居合是拔刀而後斬」,或拔刀瞬間切砍等本質上的問題,到引起實際上採取何種招術為要等等,交換了各式各樣的意見而熱烈討論。討論結果對居合的內涵得到以下的共識:

1. 拔付NUKITSUKE的橫一文字
2. 結束的縱(豎)一文字
3. 左右肩兩斜架裟斬
4. 返刀
5. 突刺的一刀

等歸納這五項目一致通過。

居合刀術之招術是,起身和蹲踞動靜間對峙的刀技之故,正坐三式、立膝一式、立姿三式等合計七式大約可滿足一般練武者之意而採取的決定。制定居合,當然依古流派為根源思考創出。但所制定的「制定居合」招式都要不屬那方面流派為大前提的因素下,不得不每個招式都創出獨特動作。動作的小細則,經由政岡、小本、山蔦、紙本、壇崎、澤山等六位小委員會做更進一步的檢討。

例如,第一式刀技的「拔付」後,大振斬,依大森流是通過左腕之外側,高舉至頭頂上,但是英信流,有所不同,「拔付」瞬間直接高舉至頭頂上。為不偏採用某流之故,所以制定居合,採定其中間「通過左耳之高度刺擊後方的要領高舉至頭頂上等等。尤其是行刀禮時,放置法是現行居合主流的二式方法,如始禮和終禮時分開採用「坐禮時,刀之擱置法」「刀紐」(下緒)不用等等。經十幾次研討昭和四十三年三月「全日本劍道連盟居合」(俗稱制定居合)創立制定,同年五月在京都大會上,眾多劍道人和居合人的面前演武公開發表而定案。

第一式「前」可以說是採於大森流的初發刀。由於居合的基本動作,全包含在此式裡程的關係,因此認為交互、充份利用練習,即通往精練之途徑。

第二式「後」(背向正面)也是擬似大森流之當刀。

第三式「受流」採於大森流無雙直傳英信流、伯耆流。

第四式「柄當」居合膝是跟英信流的立膝式很相似,但兩掌格置在膝上方法有所有不同。

第五式「袈裟切」此式採取於伯耆流的「磯波」逆袈裟上切法。

第六式「諸手突」在各流皆有此招術,此招之重點在刺突時用摺足,採納於劍道技法。

第七式「三方斬」此式亦多見於各流派招術。

制定居合,當初的宗旨是「不被認為是不會居合的劍道家」,是以劍道高段者交得習得為目的而創作,但學習古流居合者亦樂意接納。

尤其居合道初入門與亦容易學習,全日本劍道連盟為推廣普及之故,於段位審查之時也重視「制定居合」努力浸透居合修練者。

然而在五十五年三月在當時所原有的七式中再添加三招新的立姿招式,因此制定居合與「日本劍道型」同樣成為十式招式,而充實其內容。

第八式「顏面當」此招是參考夢想神傳流,奧居合(高深居合)「行違」和「入門」創作。

第九式「添手突」是伯耆流有名招式,刀之操法、足法運行,等可謂是十式技中最難修得的招式。

第十式「四方切」是奧居合和伯耆流等坐姿中可以窺見之招式。

所創作「制定居合」共十式,其主要意圖就是為劍道家居合而編,亦是居合道入門。為學習「制定居合」而瞭解居合之奧妙,洞劍道之心,繼續努力而更進一步,修得各流派之古流,即得劍居一體,在進展修練上必有很大幫助。